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第3回「伝統とテクノロジー」レポート

  • 執筆者の写真: staff
    staff
  • 2020年9月7日
  • 読了時間: 4分


7月11日に行われた第3回技術の哲学カフェのテーマは、「テクノロジーと伝統」だった。テーマを決めるにあたって念頭においていたのは、特にアートや芸能の領域で、伝統文化と最先端のテクノロジーをmixさせるというトレンドだった。

たとえば狂言師の野村萬斎さんは、「Form」というパフォーマンスのなかで、狂言とVR映像を融合させた表現を試みている。あるいはメディアアートを制作するチームラボは、伊藤若冲にインスパイアさせた映像作品を発表している。

しかし、こうしたテクノロジーと伝統の融合は無条件に推し進められているわけではない。伝統文化・芸能のなかにはテクノロジーとの合体を拒む領域もあるだろう。そうした、テクノロジーと伝統の境界、あるいはその両者の関わりについて考える場を設けたい、ということが、このテーマに決めた経緯だ。

このテーマを受けながら、当日集まった15名の参加者によって決定した問いは、「どこまで新しいものと混ぜ合わさっても、伝統は伝統と言えるのか」というものだった。

まずこの問いの前提について。「伝統は伝統と言えるのか」を判断できるためには、その前提として、「そもそも私たちは伝統と伝統として判断できる」という考えが潜んでいる。しかし、では人は何を根拠にして伝統を伝統として判断しているのだろうか。そうした根拠に何らかの基準はあるのだろうか。

出された意見の中で印象的だったのは、そもそも伝統の定義に客観性はない、それは主観的な選好に過ぎない、というものだった。これに対して、伝統の条件になんらかの客観性を求める意見としては、伝統が長い期間にわたって存続していること、そしてその代償として、それが現在においては非合理的に思えることが挙げられた。非合理的であるにもかかわらず残っているもの、それが、伝統であるという見方だ。

一方で、伝統が残り続けているにもかかわらず、それが腐敗しているということはありえる。ただ残っているだけでは意味がなく、伝統はその精神や本質を伝えるものでなくてはならない。ではその本質を誰がどうやって判断できるのだろうか。

ある参加者は、そうした本質は権威によって条件づけられている、と主張した。つまりみんなが理解できなくても、権威によってそれが伝統であると規定されることで、それが伝統になるとうことだ。たとえば達人による伝統の理解は、必ずしもすべての人間が共有できるとは限らない。そうであるにもかかわらず達人の理解が尊重されるのは、達人が権威をもつからである。

これに対して、伝統の本質を規定してるのは時代の要請である、という主張も見られた。たとえば伝統芸能は存続させるために多額の経済的なコストを要する。そうしたコストが支払われるためには、その時代の人々によってその伝統が求められ、存続することが必要とされていなければならない。そうした需要を満たせること、人々から支持を集められるか否かが、伝統の本質を決定している。

こうした問題はテクノロジーと伝統の関係をどのように捉えるかということと直結している。伝統は存続しなければならず、存続させるためには伝統を担うコミュニティや、社会に伝統が求められる需要を作り出さなければならない。そのため、新しいテクノロジーによって人々を惹きつけ、伝統に参与してくれる人を募ることには、合理的な理由がある。そうであるとしたら、むしろ伝統はそれが存続していくために新しいテクノロジーとの融合を必要としている、とさえ考えることができるのかも知れない。

一方で、そうしたテクノロジーとの融合が伝統を腐敗させるのも否めないだろう。たとえば新しいテクノロジーや舞台装置が、観客の想像力を代替してしまうことによって、かえって想像力を貧しくさせ、かつての伝統において表現されていたものは失われてしまうかも知れない。そうした腐敗を免れるためには何が必要なのだろうか。

対話はこうした問題を何周もしながら深まっていった。印象的だったのは、伝統が伝統であるためには存続することが必要であり、伝統が存続するためには新しいテクノロジーが必要であり、そしてそうであるにも関わらず、新しいテクノロジーは伝統を腐敗させうる、ということだ。そうであるとすると、テクノロジーと伝統は単に二項対立するものではなく、伝統はその内部に常に新しいテクノロジーとの融合を含みこんでおり、しかも自分自身を腐敗させうる契機として含みこんでいる、ということになる。そしてこの構造には、権威、経済、教育というその他問題が複雑に絡んでいる。こうした構造が浮かび上がってきたあたりで、今回の対話は終了した。

自分自身を傷つけかねないものを摂取し続けながら、しかし生き残るもの――今回語られた伝統のそうした姿は、どこか、しぶとく繁殖し続ける生命を想起させるようにも思えた。


(戸谷洋志)

 
 
 

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